Connor Burrowes: St. Paul's 1994-1996

 St. Paul's - early yearsに続き、今回はセントポール時代の後半、Connorが11歳から13歳までのお話です。

 1994年には、Connorはたった11歳でしたが、聖歌隊の上級生メンバーとなりました。彼はパーセルとヴィヴァルディの楽曲をレコーディングするために、その年も引き続きthe King’s Consortの一員として歌っていました。彼は2つのテレビ番組と多くのコンサートで歌ったそうです。その当時の映像や録音が残っていないのが、本当に残念です。
 12月には、ガラコンサートで歌うためにニューヨークに行きました。彼はヘンデルのメサイアから‘I know that my redeemer liveth’と 、メンデルスゾーン作曲の‘Hear my Prayer’を含めて4曲を歌ったそうです。
 少年合唱の中では言わずと知れた‘Hear My Prayer’は、私の大好きな合唱曲の1つです。Connorにもぜひ歌ってほしかった!と思っていましたが、残念ながら録音は残されていないそうです。アマチュアでの録音はあったそうですが、あまりにひどい音質で、持つ意味がないくらいだとか。Connorはセントポールで5回「Hear My Prayer」を歌ったことがあるそうですが、いずれも大聖堂内での録音は許可されず、現在は個人用も含めてConnorが歌う‘Hear My Prayer’の録音は一切ないということです。
 Connorの歌声は、威厳のある堂々としたものだったそうです。たった11歳であの大曲を崇高に歌い切っていたということですから、その歌声を聴くことができないのは本当に残念としか言えません。もう少し時代が遅かったら…もしくはもう少し録音技術の進歩が早かったら、Connorの‘Hear My Prayer’が聴けていたかもと思うと、悔やまれてなりません…。

 セントポール大聖堂では歌唱法を教えるだけではなく、どの聖歌隊員にも2つの楽器を学ばせています。なので、少年たちは伝統的なスタイルで自分なりの音感を磨くことができるのでしょう。実はこのことはセントポールに限ったことではなく、こういったカリキュラムを取っている聖歌隊学校は他にもありますし、音楽を学ぶ上で不可欠なことであると思います。
 実際に私も大学では、声楽専攻であっても必ずピアノと管or弦楽器を学ばなければなりませんでした。感情表現を豊かに行ったり、呼吸法を学んだりする点では、楽器と声楽に共通することがたくさんあります。
 Connorは今や熟練したピアニストであり、素晴らしいクラリネット奏者でもあったそうです。彼はいつも感情を抑え平静さを保っていたので、その演奏を聴いていると幸福な気分になれたとのことです。つまり、Connorは歌だけではなく、楽器演奏においても落ち着きと深みがあり、聴く人に感動を与えていたのでしょう。Connorの歌唱力や演奏に対する真摯な姿勢を考えると、彼の楽器の音色も何となく想像できる気がします。

 次の年、1995年は、Connorは大聖堂での課業に加えて、引き続きコンサートのソリストとして引っ張りだこだったそうです。彼はアルバートホールでのプロムス(毎年夏にロンドンで8週間に渡って行われる、クラシックコンサートシリーズ)において、3つのコンサートに出演し歌いました。また、彼はウィンチェスター大聖堂でBryn Terfel(ウェールズ出身のバリトン歌手)と共演もしました。それはフォーレのレクイエムの演奏で、テレビ放送もされたそうです。
 セントポールのソリストとしてだけではなく、純粋な少年歌手としてたくさんのコンサートに招かれていたなんて(しかもプロムスのような大きなコンサートに!)、この頃からConnorの優れた才能が知れ渡っていたのでしょう。きっと、その後の彼の音楽性の成長に大きな影響を与える、貴重な経験となったことでしょうね。

 また、Connorはフットボールやクリケット、ゴルフ、卓球を行う優れたスポーツマンでもありました。スポーツは当時の彼の生活の中で重要な部分を占めていたし、それは今日でもそうであるとのことです。今でもスポーツを続けているというのは、大変興味深いです。でも、よくインタビュー記事などで目にしますが、英国の少年聖歌隊員はみんなスポーツが好きなようですね。多忙な聖歌隊課業の中の、唯一の息抜きなのかもしれないなーと思います。Connorはbacコンサートの来日中も、スタッフと卓球をやっていたそうですね。
 Connorはめったに病気にはならなかったそうですが、年に一度か二度は扁桃腺炎に悩まされ続けたそうです。一週間は歌えなくなるので、彼にとって非常にいらいらすることでした。この気持ちはよくわかります。私も、風邪を引いて本来の声が出なくなると、治るまで歌えなくていらいらしたものです。(鼻声でも無理矢理歌っていましたが…笑)
 彼は休暇に家に帰って来ると、よく数日間体調を崩したそうです。学期末、特にクリスマス期間は常に特別な課業がたくさんあり、少年たちは聖歌隊員の義務として、それをこなさなければならなかったからだそうです。これも、何となく気持ちがわかるような気がします。いくら優れた才能をもっていると言っても、まだたった10歳を過ぎたくらいの幼い少年ですし、特に完璧主義のConnorにとって聖歌隊の課業は常に緊張の連続であっただろうし、家に帰って来るとホッとして張り詰めていた気が緩んだのでしょうね。

 そして1996年はConnorにとって驚嘆すべき年でした。非常にたくさんのことがConnorに起こりました。なんと8つの異なるレコーディングでソリストを務めたのです。2月にはAmsterdam Loeki Stardust quartetという古楽のリコーダー合奏団と一緒に、エリザベス朝時代の歌曲を集めた‘Consort Songs’のレコーディングを行いました。これはいわば初めてのソロアルバムであり、Connorにとって特別な出来事でした。(「Consort Songs」記事参照)
 8月にはJohn Scott氏とともに、17世紀の英国の歌曲を集めた、‘Upon a Quiet Conscience’のレコーディングを行いました。(「A Quiet Conscience」記事参照)このアルバムには、今までにレコーディングされたことがないと思われる珍しい曲が入っています。それはおそらく、非常に高い技術が要求されるからだろうとSimonさんはおっしゃっていました。
 11月には、イタリア出身でありアメリカで活躍した作曲家、メノッティによって書かれたステージオペラ、‘Martin’s Lie’のレコーディングを行いました。その物語の悲惨な出来事は、Connorの見事な役作りにより美しく表現されました。(「MARTIN'S LIE」記事参照)

 1996年が普通とはまるで違う年であったという、もう1つの理由があります。大庭良治氏が主要なレクイエムのミサ曲から数曲を歌う少年を、かなりの間探していたそうです。大庭氏が、Connorが‘Quiet Conscience’をレコーディングしていたときに会いにやって来たことは、有名なエピソードですね。これが初めての2人の出会いです。大庭氏はレコーディングが終わるまで留まり、それからレクイエムの計画についてConnorに話したそうです。そして10月に、記念すべきBACのファーストアルバムのレコーディングを行いました。これが大庭氏とConnorの間の素晴らしい相互理解とパートナーシップの始まりであり、それは2004年まで続きました。

 1996年には、Connorは英国で最も優れたトレブルになっていました。これは疑う余地のない確かなことであったとのことです。彼の音域や音程、発声法、フレージング(旋律を自然に区切ること)、そして安心感のあるテクニックの全てが一つになり、深みのある玄人芸を聴かせてくれていました。私たちが今後もずっと、他に類を見ない彼の素晴らしい歌唱法を楽しむことができるのは幸運なことである、とSimonさんは締めくくっています。
 実の父親であるSimonさんが、息子であるConnorのことを「英国で最も優れたトレブルであったことは間違いない」と言い切っているくらいですから、Connorの歌唱力はもう言葉では書き表すことのできないくらい、本当に才能に満ち溢れた、優れたものだったということでしょう。



 

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