Connor Burrowes: St. Paul's - early years

 Background and Early YearsではBurrowes家の音楽のルーツや、Connorがセントポールに入るまでのお話でしたが、今回はその続きのセントポール時代の前半、Connorが8歳から10歳までのエピソードを紹介します。

 Connorの聖歌隊の選考試験は、1990年11月、彼が7歳半のときに行われたそうです。聖歌隊の選考試験だけではなく、算数と英語の教養試験にも合格しなければならなかったのですが、Connorは見事合格しました!
 通常なら、セントポール大聖堂聖歌隊学校への入学は、翌年の9月になっていたところでしたが、たまたまConnorの家族がNorth LondonからHampshireに引っ越すところだったため、セントポール大聖堂では、1991年1月の早期に、Connorを学校へ入学するように招いてくれたそうです。8ヶ月も早かったとは驚きです!

 
聖歌隊学校に入学する少年のほとんどが、入学時点ですでに8歳に達しているそうなので、それに比べるとConnorは入学したとき、とても幼かったことになります。(Connorは3月生まれなので、このとき7歳10ヵ月。つまり、学年が一つ分早かったということでしょう。)
 学校にはおよそ85人の少年がいたそうです。そのうち30人が聖歌隊員、8人が見習い生、そして残りは聖歌隊員ではなく学校に通う自宅通学生です。Connorは学校の勉強にも、寄宿学校の生活に慣れることにもまったく問題がなかったそうです。
 最初の数ヶ月で、Connorが見習い生として学ばなければいけない最も重要なことは、セントポールの聖歌隊員としてふさわしい歌い方を習得することでした。彼は、以前のSt Mary's churchのときとは違う歌唱法で歌わなければなりませんでした。指導者が変われば、当然歌の指導法も違うと思いますが、最初に習ったことってその後もずっと染み付いてしまうことが多いので、また一から違う歌唱法を習得することは大変だったのではないかと思います。
 その、今までとは違った歌唱法というのは、無理に声量を出すことなく‘頭声’を出せるようにすることでした。また、その楽曲が要求しているものによって、美しい声を出すための様々なテクニックを理解する必要もありました。頭声発声は声楽の基本ですが、どうしても高音になると力みがちになり、のどに負担をかけてしまうことが多くあります。最初は声量よりも、きれいに頭の方へ響かせる特訓をしたのでしょう。後のConnorの伸びやかな高音や熟達した歌唱テクニックは、このときに基礎が作られたのですね。

 聖歌隊では、見習い生は演奏曲目を覚え、歌声を成長させ、大聖堂に慣れなければいけませんでした。Connorはセントポールでの最初の2学期間(つまり1991年の9月まで)は、見習い生のままだろうと思っていたそうです。学年が一つ下だったし、当然のことだったのでしょう。
 ところが1991年3月12日、つまり彼の8歳の誕生日の前日に、John Scott氏が彼を正式な聖歌隊員に昇格させたのです!!「このときの彼の興奮を想像してみてください。」とSimonさんはおっしゃっていました。

 その日は火曜日で、普段通りの聖歌隊の日課としてevensong(英国国教会でいう晩祷、夕べの祈り)が執り行われていましたが、真の意味でのConnorの輝かしい経歴の出発点は、このようなごく日常的な場面の中にあったとのことです。
 しかし、最初から何もかも上手くいったわけではありませんでした。Connorは家族を恋しがり、家に帰りたいと思うこともあったそうです。まだたったの8歳で親元から離れたわけですから、これは当然のことだったでしょう。
 また、年上の聖歌隊員が、おそらく彼の才能を妬んで彼につらく当たることもあったそうです。正規の入学日より早く入隊してきたことでも異例であるのに、その幼い新入生が飛びぬけた才能をもっていたのであれば、周りは面白くなかったかもしれませんね…。聖歌隊員というと、純粋無垢なあどけない少年たちというイメージでしたが、聖歌隊の中でも陰湿な面があると知ってびっくりしました。
 それから、1991〜1992年にかけての数ヶ月間、Connorは激しい扁桃腺炎に苦しみ、その間もちろん歌うことができなかったので、惨めな気持ちと失望感を味わっていたそうです。しかし彼は、これらの試練を切り抜け、
精神面でより強くなり、決然とした性格となりました。また、その歌声は円熟味を増しました。肺も強くなり、音量を維持するために呼吸のコントロールの仕方もわかってきたとのことです。

 1992年7月、セントポール大聖堂聖歌隊では、ロンドンRPO(Royal Philharmonic Orchestra)とともにクリスマス音楽のCDのレコーディングを行いました。John Scott氏は、ConnorをブリテンのNew Year Carolで最後の節の独唱部分を歌うソリストに選びました。(私が唯一持っていない、例のCDです。)7月後半に、聖歌隊は日本へコンサートツアーに出かけたそうです。(もちろん私は知りませんでしたが、そんな貴重なコンサートツアーがあったとは!!)そのツアーの特徴の一つはフォークソングを歌う部分があることで、Connorはアイルランドの古い有名なフォークソング、‘Cockles and Mussels’から詩歌を歌ったそうです。
 1993年6月には、ConnorはLondon Spitalfields Festivalにおいて、Richard Hickox氏が監督したパーセルのDido and Aeneasでソロコンサートデビューを果たしました。(「The Complete Anthems and Services−9」記事参照)その4ヵ月後には、BarbicanにおいてMarvin HamlischのAnatomy for Peaceの初演に出演しました。これは作曲家自身の指揮で、LSO(London Symphony Orchestra)との共演だったそうです。

 
こんなに幼いときからソロ出演することは、非常に珍しいことだったそうです。Connorはテクニックだけではなく、観客に向かって演奏するための勇気と度胸も必要とされました。大人でさえも小さなホールで歌うことに緊張するのに(声が楽器だから、本当に自分しだいなのです!)、小さな頃から大観衆の前で歌うという大舞台での経験を積むことができたのは、本当に貴重なことだったと思います。

 John Scott氏は偉大なクワイア・マスターであることで有名です。彼は聖歌隊に練習と集中力を強く要求したそうです。また、彼はどんな少年でも正しく歌っていなかったり、集中していなかったりするとすぐにわかったそうです。Scott氏はカリスマ的存在で、聖歌隊員たちは彼を喜ばせたいと思っていました。
 Scott氏はまた、有能でもありました。彼は、
下級生が上級生の隣りに立つように聖歌隊を構成しました。さらに彼は、どの少年の隣りにどの少年を置いたらいいかということまでわかっていたそうです。聖歌隊の並び方という、一見何気ないようなことにも気を配る彼の細やかさが、聖歌隊員を成長させていく助けとなったのでしょう。
 1992年、Scott氏はConnorを上級生の中でも特に優秀な、David Nicholasという少年の隣りに立つように並び替えたそうです。ConnorはDavidから多くのことを学びました。DavidはConnorを助け、彼を励ましたとのことです。合唱だけではなく楽器演奏においても、隣りで素晴らしい技術をもった人が演奏していると、自分も負けじと声や音を出したり、安心して演奏できたり、自分の実力以上の力を発揮できたりするものです。David少年もきっと、Connorにとって尊敬できるお兄さん的存在の人だったのでしょうね。

 1993年7月、DavidとConnorは他の大聖堂からの聖歌隊員と一緒に、Henry Purcellの音楽をレコーディングするためにthe King’s Consortに参加しました。(再び「The Complete Anthems and Services−9」参照)テレビ番組も作られたそうです。Connorはthe King’s Consortの中で一番年下で、Connorの次に年下の少年より2歳も下であったとのことです。このことは彼の才能に少しばかりのきっかけを与えました。このときConnorはわずか10歳でした。



  

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